2日目おわり

 

髪を切った。ちょっと気分が上がる。単純な奴。ちょっと伸ばしてみた方が彼は好みだろうか、とか考えてたけど、全然ボサボサだったから切るしかなかった。

入社手続きも済んで、あとは1週間グータラするだけ。予定に無かった挨拶とかあったけど、忘れることにする。言葉に詰まって天を仰いだ時間とかあったけど、全部忘れることにする。

予定に無かったせいで職場出てから散髪だし。第一印象は塗り替えていくしかない。

 

 

昨日の朝すごく嫌な気付きをしてしまってちょっとへこんだ。

入社手続きしてくるよーって好きな人に言ってたんだけど、朝一で気をつけて行ってくるんだよってLINEが入ってた。

トリプルアクセル。超えてクワッドアクセル。大回転決め込むくらい嬉しくて、一呼吸置いてじんわ〜り嬉しさを噛み締めて。ってしてたら。気付いた。今この優しさ飲み込まないようにしてたなって。

この間のハッピー理論がなかったら気付けてなかったかもしれない。嬉しいなーーーーってめちゃくちゃ噛み締めるけど、自分の中には飲みこまない。防衛本能だと思う。もっと好きにならないようにする防衛本能。

傷つきたくなくて相手の善意を100%で飲み込めないのは悲しい。ここまでならギャン泣きしないよ、ってラインをちょっとずつ広げてちゃんと受け取りたい。というか傷ついてもいいと思う。傷つけ。ちゃんと傷つかないと、自分の気持ちに鈍くなっていきそう。惚れたもん負けは最初から知ってたんだから、とことん負けたらいい。

ちゃんとありがとうって言えてよかった。気をつけてねだってよ、嬉しすぎた。スクショした。普通に。全然気持ち悪くない。嬉しいだけ。嬉しかったらスクショするだろ。(どこかへの言い訳)

 

 

自分はたぶん、自分を守るためにENFPからINTPになっていったんだろうなと思う。外向から内向へ。感情から思考へ。

理論武装を身につけて、こうなんだからこうなはずって感情の道筋や根拠を脳内で可視化出来るように。自分のだけじゃなく相手の感情も、計算式を使うように結論を急いで導いてしまってた。そうした方が諦めもつくし、傷も浅く済むから。仕方がないよ、で自分を納得させられるから。

素直なまま、友達にも恋人にも家族にも散々馬鹿を見てきて、もう嫌になってた。感情ってそんなんじゃないのにね、毎日形が変わって、冷たいのと温かいのどっちもあったりする。いろんな色が混じってぐちゃぐちゃになるんじゃなくて、いろんな色がその色のままあったりする。

かき混ぜてかき混ぜてこれが答えです!って一色にしてしまっても、それって何の答えでもなかった。相手の中にあるいろんな温度、いろんな色の全てを尊重出来たらいい。自分の幼稚さとの戦いだ。

 

傷つかないように生きるよりも、嬉しいも悲しいも素直に飲んで、人をたくさん好きになれる方が自分は嬉しい。友達のことも好きな人のことも。

彼に本当はお馬鹿なの?って聞かれたこともあったけど、馬鹿なんだろうし、馬鹿でいさせてくれてありがとうなんだろうな。馬鹿じゃなくなるのは、諦めた時だ。

会いたいなあ、週5とかで会いたいなあ。週末は楽しそうだから、平日5日で妥協するから会いたいなあ。でもお仕事も頑張ってるから、4日にしようかな。休んで欲しいから3日かな。それでもやっぱり7日の気持ち。せっかく来れたのに週1も会えないんだろうな。違う世界で生きてるみたい。クソッタレな世界だわ。仕事頑張らなきゃな。

 

 

福岡の友達が遊びに来ててたまたま会えた。ハロウィンデートするらしい。いいなあデート。

云年振りでも全然変わらんかった、毎週連絡取ってるから当たり前か。楽しかった。

 

3年と5ヶ月

 

人を判断するきっかけというのは本当に些細なところにあったりする。

何回も遊んでるし、会っていて気が楽だった人が変な空気を出してきた。やや恋愛?それより性的な方だった気がする。こういうものに対しての嗅覚は抜群だし、かわし方はいくらでもある。悲しかったのは、友達のままでいたかったなということ。

一度、彼が知人のどうしたってセンシティブな身体的特徴を小馬鹿にした瞬間があった。酒も入っていたし、楽しい場だったし何も言わなかったけど、その記憶は自分の中の彼のアイコンにでかでかとぶっ刺さっている。

その日彼は酔っ払って自分の酒代を払うことも無かった。翌日以降立て替えたことへの連絡も無かった。その一件で彼への信頼値があるラインを切ってしまった。

人間的に魅力を感じなければ恋愛にも性的にも見れないし、何にしたって引っかからない。どこにも進まない。

そもそも都合が良いんだろうな、と思う瞬間がいくつもあったから、結局それなんだろうな。こういう直感はだいたい正しい。

 

それでいうと、別の友人は突然「2週間もやれてない」などとSNSに書いていて、遂にそういうことを言うようになっちゃったんだ。ってその瞬間また一人友達が消えた。

人間に潔癖過ぎるせいで簡単にシャッターが降りる。これは自分でも割と嫌。

けど2週間もやれてねーやって大っぴらに言えるその奔放さや軽さ、暗に普段はもっと高スパンでやれてるって事をしっかり凝縮させてアピールするその一言で、もうすっかり嫌悪感が湧いてしまった。

 

性生活を垂れ流す人も苦手だし、上裸も晒す人も苦手。100%ナシ。

嫌なものが多すぎて疲れたりする。しかもそういう人達の方が決まって人生が楽しそうで、純粋にいいなと思‪ってしまう。それも嫌。

何をどれだけ努力しても、自分の人生で実るものは少ないんだなと思い知らされる。

 

 

人と関わる上で、自分は減点方式で相手を見ているんだと思う。自分に厳しいのは良くても、相手にも厳しいのは良くないなと思う。それでも最低限のラインは守っている人たちと一緒に過ごしたいと思うのが現実。

理想が高いんじゃ?とも言われるけどそうは思わない。自分の頭で考えられる人がただただ好きだ。

周りがこうだからこれでいいやとか、この人たちは許されてるし、こっちの方が楽だし、そうやって周りに倣って流されていく人を何百何千と見ている。

特にこっちの世界ではルッキズムは当たり前、モテたもん勝ち、媚びて媚びられの世界がそこら中にある。

吐き気のするような快楽主義、そいつらの人を見る目と下半身は同じだけゆるゆるだろうとさえ思う。

その中で何人が自分の意思を持ってるだろう。そこに疑問を持てる人が何人いるだろう、流されない人が何人いるだろう。

下半身を載せたかと思えば恋人が欲しいとほざいてみたり、自分の性格の悪さを盾にしてイケメンばっかズルいって文句垂らしてみたり、そんなのを見てると酷く胸焼けする。

どうしたらそうなるんだろう、その歪みを理想の平均とするのであれば、確かに自分は求め過ぎているんだろう。

 

普通の日常会話がしたい。仕事と友達の話。好きなこと、趣味の話。季節の流れや、自然に寄り添った会話。それがこんなに難しいなんて思わなかった。

綺麗なものをただ見ていたいだけで、こんなにも生きづらいなんて。

 

 

好きな人が上裸を晒してたら、誰かに媚びたコメントをしてたら、それだけで引いてたのに。どれも無かった。いろんな男と盛ってたら、そこらへんのやつと一緒かってケロッと出来たのに。

次へ次へと知りたい気持ちが沸き出して、それが自分を急かすんだろうと思う。急いだところで、何を控えているわけでもないからな、と思って遠くを眺めて立ち止まれもする。ゆっくりでいいんだと思う。きっと単純に愛していいよ、の権利が無いせいで燻ったものが、脳と心臓を焦がして苦しいんだと思う。

お前の惚気が聞きたいよ。ってマブの言葉が胸に刺さってる。私も可能であればそうしたい所存です。惚気る準備は出来てんだよ。

 

 

いつだったか、もうやめようと思って返信しないでいた時、酔った相手から何で返信くれないの、と来たことがあった。恥ずかしいけどそれが彼との間で一番嬉しい記憶だ。それがあったから頑張ってみようと思えた。

自分が返すことで相手に返信する義務に似た何かを課せてしまってるなと思ってしまう。 やめた方がいいんじゃないかって考えるけど、その度に喉の奥が痛くなる。でももう少し頑張っていたいとも思ってしまう、自分の弱さ。

そんな気持ちが一瞬でも相手の中にあったことを嬉しく思いつつ、まんまとハマってしまったなってテヘペロするしかない。 

 

楽しい事だけ考えていたい。ハッピーな感情だけで向き合いたい。彼にもらったハッピーをちゃんとハッピーで返せたら、それが一番いいことだと思う。何よりハッピーな自分を見ていて欲しい。

ゆっくり頑張れたらそれでいい、楽しいことはたくさんある。

 

 

そんなわけで、そんなわけでもなんでもないけど、お家を引き払いました。なんか今日はいろんな手続きをした。メールと電話ばっかりだった。自分の生活を立て直すことも頑張らなきゃ。

ここに居させてくれてありがとう、次の家主が良い人でありますように。

 

 

追記

ChatGPTからもらったアドバイス読み直してたら、本当に焦るな急かすなが前面に出てて口キュッてなった。

対応のアドバイス

焦らない: ISFPは自分のペースで進むことが重要なので、あまり急かさない方が良いです。彼らが心地よいタイミングで返信するのを待つのがベストです。
リラックスした姿勢で接する: 圧力をかけず、自然体で接すると、相手も安心してコミュニケーションを取りやすくなります。
自分からもペースを合わせる: メッセージの頻度や長さを相手に合わせてみることで、バランスの取れたやり取りができるかもしれません。

こんなんめっちゃ言ってくれるからね、これを何回も何回もいろんな形で見た。すまんGPT。もっと言ってくれ。

 

ログボみたいな

 

生存報告と寂しい話。

何で望みの無い恋ばっかするんだろうと思う。

自分に興味が無いだろうって思いながら、相手をしてくれることに嬉しくなって、自分の感情も騙し騙し過ごしてる。

ふとした時に、相手にとって自分は何でもないんだろうなって思い出してしまって、自己嫌悪しながらやめたいなあって思ったりしてる。これの繰り返し。最早ルーティン。要らねえルーティン。

 

覚えてることはたくさんある。

あの時こう言ってたな、あの時こうしてくれたな、だから大丈夫だ、きっと大丈夫。そう思って何とか耐えるけど。

誰しもがとりあえず都合の良い言葉を吐くもので、それに縋ってたら痛い目を見るのはこの世の常識みたいなところ。

嫌だったら返信してないよとか、

なんやかんやスキンシップしてくれるとか、

まだ自分の気持ちがどうなるかわかんないとか、

嬉しかったことばっかり大事にしてたって、望んだものは手に入らない。

 

仕事終わり、深呼吸してガチャでも引くように待ち受けを開いても返信なんか勿論入ってなくて、夜中までソワソワ過ごしたって結局静かに更けていくだけ。

目が覚めてボヤボヤしながら携帯を光らせても返信は入ってないし、その日あった話したいことを話すタイミングすらどんどん失っていって、話題を作ってもスルーされるだけ。

 

友達らはキープだね、の満場一致。

自分だってそう思う。それでしかない。友達がそうなってたって同じことを言う。やめれって言う。

1日1通、調子が良くて2通。

キープするにしたってむしろ手間では?って思うレベルの、キープ。惰性で続けてるゲームのログボみたいな扱い。まじでこれは言い得て妙。

返信が来ないことに、というか、自分の優先順位が馬鹿ほど低いんだなってことへの悲しさ。

ChatGPTに何回も何回も相談した。こんな人もいるんだろうか、少しでも前向きに関係を考えている相手に、1日1度しか返信しない人間は、世論としているのか、いると言うのであればもう少し頑張るから。って。

いるんだって。

こいつがいるって言うから頑張ってるみたいなところある。嘘つけ。いっそいないって言ってくれた方が夢を見ずに済んだんじゃないだろうか。

返信の頻度と気持ちは比例しないから落ち込まないで、でもそれについてたくさん悩むのはそれだけ相手を思ってる証拠だよ、って100点の答えをぶん投げてくる。

10回は相談した。信じてない。それでも10回頑張れって言われて、文明に励まされる恋。

 

平日は仕事、週末は基本どっちも外出、恋愛しなくても楽しいし恋愛しようって思ってもないだろうね。が友達の見解。

恋愛の隙間がない、そう思う。勝手に隙間が出来るものでもない。彼の意思で作ることでしか生まれない。

果たしてそこに自分を捩じ込めるのか?捩じ込んでもらえるのか?って聞かれたら、そこまで自分との時間を相手は大事に出来ないだろうなと思う。なんてったって一緒に過ごしてて楽しそうだなって思ったことが無い。

友達にこの人だよーってSNSに載せてる写真を見せたら楽しそう、よく笑うんだね。って言われて、自分の前で全然そんなこと無いな…?!って気付いて悲しくなった。

友達と恋人は別だけど、楽しくないは致命的だ。

自己開示をしてくれないから、笑いのツボもわからない。何を話したら楽しいのかもわからない。手探りで頑張ろうと思っても、相手の反応が薄くて間違うのが怖くて何も出来なくなる。

何で自分と関わってるんだろうあの人は、ってここまで書いてて思う。

自分がただ関わろうとしているからそれに応えているだけ?そこまで受動的なのであれば、純粋に苦しめてるんだろうな。

 

お土産買ったよとか、合わせて休みを取ってくれたり、だから前向きに思おうって考えられるほどのパワーがもう無い。

無くて当然だと思う。何を考えてるのかがよくわからない、何も考えてないのかもしれない。

もうやめましょっか!って言っても止められる。でも進んでいるとは思えない。

返信する暇は無いけど不特定多数が見るアイコンはちゃんと変えるんだ、とか思ってしまう。俺に返信しないで俺の嫌いな人には楽しそうにコメント返すんだ、とか思ってしまう。からSNSはすぐ外したし、連絡先交換したらすぐブロ解した。何にも理解されないんだろうな、この嫌な気持ち。伝える資格も無いし。

真剣に考えるほど嫌な気持ちの方が多くなりそうだな。まあ嫌な気持ちがあるってことは自分を大事に出来てるんだろうな。盲目を選んで楽しんでるし。

耳障りの良い言葉を吐いてこないだけ、誠実なんだろうなと思う。マイナスを作らない、ではなくて、プラスを作らないベクトルの誠実さ。

それを誠実と取ってるのすら前向きなんだろうけど。まだ全然夢の中だ。

好みの性格も好みの顔も知らない。でもドンピシャだったらこんなんじゃないだろうに、自分がそうだったらよかったな。

 

興味無いんだろうな。野良猫がちょろちょろしてんな、ってレベル。もしくはそれ以下。野良人間。野良人間て。

次会う時は〜って話してくれるのが嬉しかった。けど会いたいわけではないんだろうな。そういう違い。

何考えてんのか1mmもわからない。どうしたいかもわかんない。何も返ってこない、何も伝えてこない。つまり何も考えてないし、どうしたいも無い。

ネガティブじゃない、事実確認。

何にもない。

何にもないというか、彼にとっての何にもなれない。

毎日小さな失恋を繰り返してるみたい、って下書きがあった。言葉の一つ一つ大事にしたくないってのもあった。自分を嫌になるのは良くない恋愛だとか、猫被るせいでステータス30%ダウンするとか、呼ばれた名前があまりにキラキラしてて自分の名前じゃないみたいだったとか。

ログボだけじゃない、面白えなこいつ、って思われるゲームになりたかったな。

 

追記

ご飯食べたら元気出ました。

かくとだに

 


プロの言葉を引用するのがきっと一番伝わりやすいので、まずは引用から始めます。

ざっくり言うと、子供の頃の親との関わり方が原因で、大人になっても人との関わり方が上手くいかなくて苦しいねっていう、愛着障害の話です。

親しみやすいとっかかりを挙げるとすれば、"推しの子"の星野アイなんかも愛着障害が一つのキャラクターモチーフなんじゃないかな、と思います。

"NARUTO"の主人公であるうずまきナルトも、アカデミー入学前後の幼少期の描写ではその傾向が強く見られます。

 


愛着障害は子供の頃に出来る処置と、大人になってからの処置はまた違ってきます。無自覚の人もいれば、なんとなく生きづらいなと思っても答えに辿り着けない人もいます。

自分が発信するのは、自分自身へのけじめと、同じような苦しみを持って生きている人への気付きとなればいいなと思うからです。

 


下記、二つのクリニックから引用しています。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

一つ目


愛着障害とは、養育者との愛着が何らかの理由で形成されず、子供の情緒や対人関係に問題が生じる状態です。
主に虐待や養育者との離別が原因で、養育者と子供との間に愛着がうまく芽生えないことによって起こります。

 

・人への基本的信頼感の芽生え

子どもは特定の養育者との間に愛着を築くと、その養育者に甘え、依存するようになります。養育者に甘え、受け入れられる。このようなやりとりを通して、人とかかわる楽しさや喜びを体験することが出来ます。


・自己表現力、コミュニケーション能力

愛着を形成した相手に対して、自分の要求を伝える、また時には相手の要求を受け入れるということを通して、子どもは自分が求めていることを表現することの楽しさや難しさを知ります。これにより表現力やコミュニケーション能力の向上が期待できます。


・自己の存在と安全の確保

子どもは不安や危機を感じた時に、愛着の対象者を「安全基地」と見なして、自分の身を守ろうとします。
安全基地とは、自分の見知らぬ世界に対して好奇心を抱き、それらを探索しようとする時に、子どもが拠り所とする存在を指します。

自らの好奇心のもと、見知らぬ世界を探索したときには、不安や恐怖、心理的・身体的苦痛を感じることがあります。そんなときに安全基地へ戻って、安心感を得るのです。子どもはこのような探索と避難をくりかえすことよって好奇心や積極性、ストレスに耐える力を身につけていきます。

 

大人の愛着障害とは、これらをきちんと経験出来ずに、精神的歪みが正されないまま成長してしまった状態を指します。

 

対人関係

・過度に従順になったり、顔色をうかがう

・期待に応えられない自分をひどく責める

・人とほどよい距離がとれない

・恋人や配偶者、また自身の子どもをどう愛すればいいかわからない  など


対人関係の面では、第一に愛着障害の原因をもたらした養育者に対しての態度に症状が見られることがあります。

養育者に激しい敵意や恨みをもつことで反抗的な態度を取り続ける。反対に親に従順すぎるほどの態度を取り、大人になっても親に言いなりになってしまっているというような症状が表れます。

また、子どもの場合と同じように、人とほどよい距離を保つことができない、恋人や配偶者、そして自分の子どもに対してどのように愛情を注げばいいかわからず、関係づくりに苦労することがあります。


愛着障害が引き起こす疾患

大人の愛着障害が他の疾患の発症原因になってしまうことがあります。

うつ病

心身症

・不安障害

・境界性パーソナリティ(人格)障害  など


このように、愛着障害がある大人は生活を送るうえでさまざまな困りごとが起こるだけではなく、二次的に他の疾患を引き起こすこともあります。ですが、大人になってからでも工夫次第では症状をやわらげることができたり、困りごとを克服できたりすることもあります。

 

大人になってからの愛着障害の治療法

最も大切なこととして、幼少期に満足に得られなかった、愛着形成のための愛情深いスキンシップやコミュニケーションを補ってあげることが挙げられます。大人になってしまうと実の親と子どものころのように密にやりとりをする、ということが難しいかもしれません。その場合は、恋人やパートナー、教師や友人などとのやり取りが愛着障害の克服の第一歩となることがあります。

また、職場など対等な人間関係をつくることができ、自分の存在価値が認められるような環境に身を置くことや、自分が「理想の親」のような存在となって後輩を指導するということもアイデンティティの確立や自信をもつことにつながり、結果的に愛着障害が改善していく可能性があります。

http://www.madreclinic.jp/pm-top/pm-symptom/pm-symptom-21/

 

 

二つ目


愛着障害とは、幼少期の愛着形成に何らかの問題を抱えている状態をいいます。
愛着とは、医学的には「特定の人に対する情緒的なきずな」を表します。

重要なのは、スキンシップを与えてくれる人が特定の人であることです。
多くの人にかわいがられるのは幸せに見えますが、深い愛情をもってスキンシップを取ってくれる特別な存在が必要なのです。

 

愛着障害は幼少時の環境が原因となっているため、薬物療法認知療法などで治していくものではありません。

愛着障害によって、その二次的状態であるうつ病適応障害を発症している場合や、依存性・回避性・境界性のパーソナリティーの人に対しては薬物療法を要することもありますが、どれだけ行っても根本的な解決には至りません。

なぜなら、愛着障害は克服するものだからです。


不安定な愛着スタイルの人が持つ愛着の傷の修復には、「安全基地」の存在が重要です。

「安全基地」とは、自分がつらいときや不安なとき、満たされたいときなどに、心理的に安心できる「人」や「場所」のことをいいます。

そこにいれば、自分は守られている、安心していられると心から思える居場所を確保するのです。

「安全基地」を得て、心が十分に満たされ、「そこに自分がいてもいいんだ」という自負が芽生えると、無意識のうちに心の奥に引っ込めていた自分自身を表に出せるようになっていきます。

人との付き合い方のスタイルもおのずと変わり、少しずつうまく付き合えるようになれば自信につながり、自己肯定感が育っていくのです。

愛着障害では、幼少時に満たされなかったことを成人しても引きずっていますので、その満たされなかった気持ちを補っていくのが理想的です。


心療内科を受診する、うつ病適応障害、不安障害、あるいは依存性・回避性・境界性のパーソナリティーの人は、 心の根底に愛着障害が潜んでいることがよくみられます。

このような人たちには、その二次的状態であるうつ病や不安障害などの治療だけをどれだけ行っても根本的な解決には至りません。

根本にある愛着障害の克服に目を向けていくことが大切なのです。

https://yokohama-tsuzuki.jp/aichaku.html

 

 

 

 

 

 

 

 


以上が大まかな説明です。

一言で愛着障害と言っても、一番厄介だなと思うのはそれが根本にあるせいで、人それぞれ色々な悩みや精神的疾患を引き起こす事だと当事者なりに思います。

 

 

自分の場合、家を出る15の歳までクソ親父に殴られ続けていたのが原因です。椅子やバットで子供を殴り続ける親が世界には確かにいて、その子供がどうして自分なんだろうなとよく思っていました。母の連れ子だったんで可愛くなかったんでしょう。

そして家庭内が上手くいかないと母親は自殺を図るので、どれだけ殴られてもつらくても、自分は大丈夫だと気丈に振る舞うしかありません。甘え方も頼り方も教わるチャンスすら無く、常に気を張る生活が続きました。

あからさまに可愛がってもらってる弟に時折嫉妬はすれど、大事な弟が殴られてほしくないので一生懸命生贄になります。

自分が居なければこの三人で綺麗な家族として成立するのでは?と思うようになり、写真にも写らず、旅行にもついていかず、一人で過ごす事を選び続けます。この頃から、一人のプロ。

子供の頃の記憶、全然無いです。無くてよかったとも思います。

 

 

そうやって家族は勿論、友人、恋人、職場の人間、全ての人間関係において、ずっと悩んできました。

必ず一線を引きます。三本線くらい引くかもしれません。相手を大事にしたいと思えば思うほど、自分の在り方について悩みます。

必ず相手にとってどんな自分で在ればいいか悩んで、考えて、演じてしまって、自分で演じたにも関わらず演じ続けることに疲れて、また、演じている自分が好かれるほど演じていない自分は好かれないだろうと自己嫌悪して、人と関わることに疲れていきます。

特別仲良くなれても、どれだけ精神的に甘えたり大事にしたり、近付いてもいいのかわからなくなって落ち込みます。適度に楽しく仲良く出来ている他の友達が羨ましいなと思ったりします。友達にヤキモチを妬いてしまうので、友達を作るのを控えるようになります。妬いている自分が嫌になってしまうんです。

 

ストレスから自律神経を壊して、十何年来の不眠や過眠に悩み、それも相まって仕事や友人らとの信頼構築が難しくなり、まともな信頼関係を築けなくなります。こういった弊害が、愛着障害の一番厄介なところだなと思います。

 

 

 

 

 

6年前、自殺を図った時はやっと解放されると思いました。

仕事もうまくいかない、まともな交友関係も築けない、みんなどうして楽しそうに生きていられるのかわからない。

けどそんなのもう何も気にしなくていい、ありのままの自分で死ねる、それが何より嬉しかったことを覚えています。

救助され(山だったので)、閉鎖病棟に運ばれて、生きていかなきゃいけないんだと思った時、やっと自分の生き方と向き合いました。

けれどその時はまだ表面的なものしか考えられず、奥底にあるこの愛着障害まで触れてはいませんでした。

どうしてこうなったのか、まで辿り着かず、けれど根本的解決にはなっていないんだろうなと思いながらずっと暮らしていました。

生きるとは何かも、死ぬとは何かも、何も考えずに暮らしていられる時こそ幸福なのかなと思います。

 

こんな下手くそな生き方をしているのを見てわかるように、

大人の愛着障害は、引用の通り安全基地を築くことが一番の解決策であるんですが、安全基地を改めて築くことの難しさが安全基地を築けなかった為に発生しているという、なんとも酷く悪循環な性質をしています。

"安全基地を改めて築くことの難しさが安全基地を築けなかった為に発生している"、ここら辺で脳も口もモニョモニョしますね。

 

「この下手くそさちょっと親近感がある」と思った人がいれば、少し向き合ってみてもいいかもしれません。

 

 

こうやって考えていく内に気付いた事で、悲しいこともありました。

それは自分が安全基地を欲している立場なのに、俺が人にしてあげられる一番の愛情表現が「相手にとっての安全基地になること」だったということです。


自分が心の奥底で必要としていたものを、自分は必死になって相手にあげようとしていたんだなと思った時、酷く悲しいというか、虚しくなりました。おかしさもありました。

得たことのないものをあげようとしていたってことは、自分のしてきた愛情表現って全部見様見真似のハリボテだったのでは?と思ってしまったことで、今までの生き方を疑う余白が出来てしまったのです。


皮肉めいてると思いました。

自分自身嫌な経験をしている分、自分の愛情だけはきちんと真っ直ぐ伝えようと誓い続けてきたはずなのに、自分の中に確固として持ち続けてきたものすら揺れてしまいました。

 

 

 

失恋をきっかけに調べる事になったのですが、こんなに心が壊れそうなのはどうしてなのか、壊れないためには知るしかない、自分と対話していくしか無いと思いました。


人に一線を引く分、普段なら切り替えも早いのですが今回は全然違いました。自分でも驚くくらい悲しくて、外にも出られず仕事も休んで、いつまでも泣いてました。

少し経って、心の動き、自身の特性を考えて、愛着障害について調べるうちに、その人の存在が安全基地になり得そうだったんだなと、そこでようやく気付けました。

 

素直に向き合うをモットーにしていたにも関わらず、また、相手も素直で居る事を許してくれていたにも関わらず、その時間を失いたくなくて、自分の歪さを頑張って隠しました。見透かされるのが怖くて我儘にもなりました。

寄りかからないように自制するのではなく、作るのではなく、歪なら歪なままで、ちゃんと向き合えばよかったんだと思います。相手がくれた機会を、自分の手で駄目にしてしまいました。

 

 

ぼろぼろだった頃、友達が言いました。

どれだけ好きでも、どれだけ一緒にいたくても、何かが今はダメだと言ったんだと。

神様がNoをたたきつけたんだ、と。

思い出したその言葉がスッと胸の中に落ちました。今の自分じゃ誰も幸せに出来ず、そして幸せにしてもらう準備すら出来ていなかった。

 

何かがそこに在ることで、無くなってしまったものがあることを嫌でも実感させられました。泣いても笑っても、次の瞬間には思い出してしまう、それがまだ堪らなく悲しくて、何とも向き合えませんでした。

 

某歌手が、人は誰かが居なくなって痛むのではなく、元から痛みはあって、その人が痛み止めになってくれていたのだと、そう言っていたのを思い出しました。

必死に見ないフリをしていた痛みを、癒やしてもらっていたんだと思います。ずっとずっと抱えてきたものを、唯一降ろせる場所になってました、出会ってから自分は酷く弱くなりました。

泣き虫になったと思いましたが、元々、小さい頃はうんと泣き虫でした。愛着障害は、幼い時間をやり直していくんだそうです。

求めて、不安になって、認め合って、そうやって過去を克服していくんだそうです。自分は、何も知らない相手にただ我儘になっていました。自分も何も知らなかった、もっと自分のことを知って、もっとちゃんと対話出来るようになっていたらよかった。

 

 

 

 

余計なことをつらつらと書き過ぎました。

伝えたかったのは、生きづらさを感じている人がいれば、自分自身と向き合う時間をたくさん作ってほしいということです。

知ることで変えられることが必ずあります。自己嫌悪しなくていいよう、いっぱい備えてほしいです。本当に欲しいものは何なのかを、一番優先すべき感情は何なのかを、間違えないでほしいです。

 


最後に。俺と似た環境で育った人、今誰かを大事にしたい人、自分が嫌になってしまう人、俺みたいな人と今向き合ってる人、一生懸命自分と戦ってる人、自分を好きになりたい人、

指一本で出会えもすれば、お別れも出来てしまうこの世界で、ただでさえ人間関係が希薄なこっちの世界で、大事にしたいと思える人が出来たら、等身大でぶつかってください。

お互いを認め合って、後悔の無い選択をしてください。SMSを安全基地にしちゃダメです、ちゃんと、人と話してください。

人を頼って、言葉を交わして、大事な時間を作ってください。

 

そこに生まれた優しさが巡り巡って大事な人に届いたらいいなと、またそれが巡って、大事な人の大事な人もみんなみんな幸せになれたらいいなと、心から願っています。