互いの中にあるもの

 

 

 

 


誰もが真実を見ることはできない。


しかし真実であることはできる。

 

 

 

 

 


ついこの間、バイオハザードでゾンビを滅多打ちにしていたら合間のムービーでとても静かで寂しげな一節が引用されていた。
後で調べようと単語単語を覚えていたのだけど、握りしめたバールがゾンビ達の頭頂部を殴打する度にその記憶も朧げになっていってしまった。
確か、フランツ・カフカの変身だっただろうか。


後で攻略サイトを見ても見つからなくて、YouTubeでプレイ動画を見てもそのシーンが無く、どうしたらいいのか…
とりあえずカフカの名言集を読んで、彼の世界観になんとなく半身を浸しています。

 

 

 

 

 

冒頭に置いた文もカフカの言葉です。先に述べた一節とはまた別のもの。
真実を見つけられずとも真実であることはできる、直感だけで気に入りはしたけど、紐解こうとするとんんんんんってなる。


真実とはなんぞや。

 


彼はまた別の場所で、

真実の無い生とはあり得ない。
真実とはたぶん、生そのもののことだろう。

とも言っている。

簡単に、とても簡単にそのまま当てはめると、


誰しもが生を見ることはできない。
しかし生であることはできる。


となる。

生とはなんぞや。

 

 

 


偉人達の名言がなぜ名言と呼ばれるのか、
真意だけを過去に置き去りにして、言葉という物体だけを現世に届けられるからだろう。

本当はどんな意味だったかなんて関係ない。
結局のところその言葉を見て受け取った我々がどう思い、どう考え、何をそこから生み出していくのかを測られるのだ。

 

 


誰しもが見ることはできない。
ありのままの生とそこに潜む真。

 

 

 

 

 

いつか、誰かの真実でありたいと思ったことがある。

この人が生きていけるのであれば自分の生き方も報われるだろうと信じていた頃。

気付けばその人はどこにもいなくて、残ったのは自分だけだった。

 

 

 


自分では見つけられなかったものが、
また別の人から見たらそれは自分の中にあったりするからたまったもんじゃない。

 

自分の生を探しながら、誰かの生であろうとする、自分はそうやって貪欲に生きていくのだろう。

 

 

真実はきっとまだまだ見つからない。

一人では決して見ることのできないものだから。

 

 

 

 

おくること。

 

 

昨日歩いた同じ道でも蝉の鳴き声がなんだか少ない気がして、一足先に夏を終える者達がたくさんいるんだなと少ししんみりしました。道端に落ちている蝉達を見るたびちょっと胸が痛くなります。
虫は嫌いなんですけどね。

 

いろんなものの終わりが蝉一匹の死骸に詰め込まれてるような気がして、忘れちゃいけないものもきっとその中にありそうで、はっきり思い出す前に目を逸らします。ただ蝉一匹の死骸、それ以上でもそれ以下でもないのに。
夏が死ぬ頃、きっと自分達は蝉の声を思い出さないし。

 

 

 

 

 

 

 

最近ちょっと映画充出来てて満足度高しな日々を過ごしています。映画館じゃなくてお家映画なんですけど、


ギフテッド
ボヘミアンラプソディ
ワンダー 君は太陽


を観ちゃいました。
もれなく全部泣いてる。
泣き過ぎなのか目の色が普段よりちょっと薄くなってて、このまま青くなったらいいなって思ってます。信じるものは救われるって誰かも言うてたし。青くなれ。

 

 

映画の話に戻ります。

どれも優しいタイプの映画と言うか、語彙力無いまま言うと優しい世界が基本的に広がってて、見終わった後に殺伐さが残らない映画達でした。当たり前か。
脳がホラー、サスペンス、スプラッタに侵されるといったいこの中の誰がサイコな頭してて誰がブッ○されてしまうんだ…ってハラハラしながら見てしまうので、もう一人の僕に「ここは優しい世界だから!!!」って説得してもらって観てました。

 

 

 

 

 

ギフテッドは見る側の心を重ねられる役がたくさん用意されていたように思う。それがぴたっとリンクした時に、涙腺が猛烈にノックされてしまう。


天才的頭脳を持って生まれた娘を天才として育てるのか普通の暮らしをさせるのか、父親と祖母のバトルがメインな訳だけど、両サイドそれぞれの愛も正義も不幸もしっかりある分難しい。


どちらかの道を自分で選べる年齢でもない、その子が幸せになるなんてどっちの道にも保証されていない、だから自分達の経験やその子への愛情に従って両者別々の道を示してぶつかるんだけど、


子育てって難しいー!!!人の人生に責任を持つってやっぱり偉大ー!!!


ってめちゃくちゃ思いました。まじで。
そろそろ文を書く頭が疲れてきたね。


多くは語られ過ぎず、ここはこうなのかな、この人はここで苦しいのかな、ここで報われたのかなって推測出来る隙が嬉しくて、考え過ぎて視界がダバダバになるシーンもあったし、みんながみんな一生懸命で、誰を憎み切ることも出来ない、愛情深い切ない映画だったように思う。
この家族を支えたり、見守ったり、一緒に闘ってくれる周りの人達もみんな優しくて、あたたかい世界だった…

才能は神様がくれたとしても、愛は人からしか貰えない。

真っ直ぐ人を愛せる強い人間になりたいなと思える映画でした。


セリフの言葉選びも退屈させないし、笑えるシーンもしっかりあって、ここがちょっと…って思うところ全然見つからない。
自分が単純なのかもしれないけど。

是非もう一回観たい。

 

 

 

残り二つも感想を書きたいのだけど、時間が無くなってしまったのでとりあえずギフテッドの感想でした。


打ちながら食べてたセ○ンイレ○ンの揚げ鶏の油がスプラッシュして服がダバダバなんだけど、したたかに仕事してきます。

 

例えば雨の日に

 

 

 

2019年も半分終わったなと思ったのも束の間、7月ももう半分が終わってしまって、このまま気付いたら秋が来て冬が来て、あけましておめでとうまでしてるんじゃないかと震えながら過ごしています。
時の流れが速いこと速いこと、速いくせに梅雨はなかなか終わらないのは四季の七不思議なんじゃないかと思う。


この時期は特にだけど、雨を好きだと言える人が羨ましい。
なにせ気圧の変化に馬鹿みたいに弱いせいで、絶好調の頭と体で雨を感じ取ることがなかなか出来ないからだ。

冴えた頭で雨の日を楽しむことをしばらくの夢にしようかな。頭痛にも倦怠感にも襲われず、雨の音でも聴きながらのんびり過ごしてみたい。
雨を素敵だと思う感性も、マイナスに捉えがちな物事をプラスに持っていける見方も心の使い方も、素直に良いことだと思うし、他の人が持ち得ない自分のお気に入りを持てることは、人生を豊かにする秘訣の一つだと思う。

 

誰かと一つの傘で歩くのは好きだし、そんな時に自分の片方の肩だけが濡れるのも嫌じゃない。

 

 

 

 

 

 

 


‪何もかもを許せるようになったら、それは優しさでも器の広さでもなんでもなくて、単に何にも執着も出来ず何にも興味がなくなってしまった証なのではとここ最近思う。‬
昔は全てを許したかったけど、今は自分を捨てない為に許せないことを残しておきたい。

それを許してしまった自分と一緒にいる相手に対して、それは本当の自分だよって胸を張って言えないのであれば少し寂しいことなんじゃないかと思う。

視野を広げることも、相手の考え方を尊重することも大いに大事な事だろう。
けれど自分の拘りを譲り続けて、結果自分を見失っては、生きていくことのなんたるかを放棄してしまうことと同じように感じるのだ。

自分の感情を手放してしまうくらいなら、それにくっついてくる厄介事もまとめて抱えてしまった方が、いつか振り返った時にその思い出が自分の背中を押して、励ましてくれる、そんな気がする。

 

 

 

 

 


大好きな人達には何も間違ってないよと言い続けたい。

選択の無い人生なんてどこにもなくて、
それが間違いか正しいかなんて誰にも、自分にもわからなくて、
ただただ、自分の決めたことに後悔と恥のない歩き方をするしかないのだ。

躓いても、転んでも、
水溜りに足を突っ込もうが、
歩けば進むのさ、とりあえず。


足取りが軽くなることを願って、
空を見上げる余裕が生まれることを願って、

梅雨だってきっともうすぐ明けるでしょう。

 

 

 

 

 

空のまにまに

 

 

 

20〜22と、三連休をいただいて東京散策をしてきました。一ヶ月ぶり。
前に来た時はちょこっっっと肌寒いくらいだったのが、今回はしっかり空気が冷えてた。
夜のお台場を闊歩した日があったんですが、好きな空気の匂いがして嬉しくなりました。

 

 

 

今回のメインは留学へ行ってしまう友達のお見送り。お見送りと言っても空港とかではなく、遊んでご飯してまた日本でねーってご挨拶をば。

それ以外にも本当いろんな人に…会えた…隙間時間活用しまくった。
声かけながらも、難しい人もたくさんいて悔しかったけど。

 

いつものたくまスタイルに、東京時代の常連さんに、仲良しマイフレンドもご飯だけとか、1時間だけとかでも会えたし、幸せ。

元彼にも、元恋仲の人にも会ったよって友達に伝えたら皆口揃えて「なにしてんの?」って言うんだけど、仲良しなんだよ!!!
不思議な寂しさも生まれるけど、楽しそうでよかったって気持ちのが強いよね。
笑いまくった東京でした。

 

 

 

 

それに行く先々で、知らない人との交流があったのがとても良かった。

 

店先のでっかい熊の置物と戯れてたら、外国人のご婦人が後ろから「graaaa!!」って驚かしてきたり(してやったり顔してた笑)、
露店で一緒に品物眺めてた人と違う場所で会って話が弾んで乳酸菌キャンディ貰ったり、
行列に並んでる時に後ろの親子とお喋りしたり(お母さんのクセが良かった)、
観光スポットでは外国人夫婦とソレイイネ!!って笑いあったり(フォトスポットのカツラとかカツラとか)、
もーーーーーーーーーーーー、

 

 

好き。

 

 

 


昔よりイイコトの方に目を向けるのが上手になりました今平。
スイッチの切り替えが出来るように、ナッテキタヨ。

マダカタコトダケド

 

 


乳酸菌キャンディくれた人が、山梨出身で、東京の嫌な空気に嫌気がさしてもう帰りたいって嘆いてたんだよね。
「お二人(今平+友達)は雰囲気が違うから、東京人じゃないなって思ってたんです、話せて良かった!」
って言ってくれて、東京の濃いとこにそこそこ居たけどワタシソマッテナイネって嬉しく思った。

 

見方とか、見る場所とか変えてみたら、少しは気が楽になるのかもなって思ったよお姉さん。
嫌な空気に呑まれるんじゃなくて、自分で自分の周りの空気を作っていっちゃおうよ。光合成しよ。汚いもん吸っても綺麗なもんを吐き出そ。いつか気にならなくなるよ、大丈夫だよ。

今平も嫌なものたくさん見たけど、今見えてるものは大好きなものの方が多いんだよ。

 

 

 


最近は考えることを放棄してたけど、
いろんな巡りあいに改めて感謝したプチ遠出でした。

 

 

 

 

 

今平が欲しいものは、エニシをエニシとして、大事に出来る人達です。再認識。

最近今平を好きって言ってくれた人は、


ゲームのログイン 1日前、
LINEの未読 3日目


とかって人でした。
無理です。(完璧なる愚痴)

愛し方も好きの形も人それぞれだけど、尊重し合えない形だったね。

 

 

 

 

 

あとカラオケで元彼が歌ってくれた、当時二人で大事にしてた歌に泣きそうになったトーキョーでした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

冬来りなば、春遠からじ。

冬将軍に愛されつつある今平は、春の日の目を見られるのか…………

 

 


いざ冬眠!!!!!!!!!!!

 

 

 

 

 

 

 

(寝るんかいってツッコミ待ち)

 

 

春より先に

 


Twitterでもポロっと(ポロっとが大きい)呟いたんですが、先日大好きな!方々が!函館に遊びに来てくれたのです。

あむしさんずましさんカッポゥ。

 


カッポゥ!!!!!!

 

 

 


半休の日だったので午前のうちに家事をこなしつつ、乾燥機が回るのを見ながら「もう少しで出れます!」とLINE。

地元のくせして距離感をナメてた今平は約束時間に無事遅れる始末。
でも二人は待ち合わせ場所にはおらず、すぐ近くのゲーセンでUFOキャッチャーをしておりました。安心。

 

 

当の二人にも言ってなかったんだけど、ゲーセンに到着してすぐ背の高い二人組を発見して(本当に目立ってた)、5分くらい観察したのち合流したんですね。
UFOキャッチャーにやんややんやしてるカッポゥを眺めながら、メダルゲームの椅子に座っておりました。

 

もうね、常々これは思ってるんですが、
待ち合わせの時って見つけられる側がよくないです?!
もしくは"あー!"って同時に気付くみたいな。

人見知りなんで声のかけ方が本当にわからない。未だにファーストコンタクトを友達に馬鹿にされる今平。悔しい。
慣れてきたらタックルとかしに行くんですけどね。
あと遠目から盗撮して本人に送るっていう怖いこともします。


今回はこっそり後ろから近づいて、
ずましさんに発見してもらいました。(発見されにいくスタイル)

 

 

 

 

駅前からベイエリアまで歩きクレープを食した後、山の麓から坂を登り函館公園へ。人里に下りた後はたこ焼きをつつきながら温かいコーヒーを求めてふらふら…。

途中夕立にあいつつも、ひったすらにのんびりと街ブラしました。
この緩いロケ感知ってる…モヤさまだ…
って終始頭の中にあった、あの空気感。
緩くも安心してられる雰囲気を醸し出せるカッポゥ、本当に素敵でした。

 

 

あむさんがずましさんに膝かっくんしてる姿はとても尊かったです。

 

 

 

 

来週末にも友達が来てくれるから…ほんともう…嬉しい…
みんな函館においで…寿司を食おう…

 

 

 

あむさん記事と

オフ会ついでに函館旅行してきた話 - あむしとずまし

 

 

ずましさん記事!

函館旅行の追記 - あむしとずまし

 

(何故かこう、記事の中に見出し?バナー?的リンクがつけられない。機械音痴にはただのリンクで精一杯である)

 

 

あむさんの記事、何故か里芋呼びになっててずっと髪型のせいだ!って思ってたんですけど、そういえば里芋好きって凄く公言してたことを今気付きました。

 

どうも里芋です。

お二人の記事も是非読んでくださいませ!

 

 

新田さん(仮)

 

雨が降るくらい暖かくなったと思ったら、朝方ちょっとだけ豪雪。春の訪れも待ち遠しいけど、冬大好き人間としては雪有難し…
春はまだしばらく先!看護婦さん達は家と職場の雪かきを思ってか、苦ーい顔をしてたけど。

今平は入院中にも新しいおばあちゃんが出来てホクホクしてたんだけど、病棟が移ってからは会えておらず、少し寂しいなあって思っての更新。
すごくすごくかわいい人。

 

 

 


今いる病棟に移る前の病棟は、病状がまだ落ち着いてなかったり、他の人に迷惑をかける可能性のある人達が入る病棟だったんだけど、そこで知り合った新田さん(仮)は自分と同時期に入ってきた人だった。

飼っていた犬を元旦に亡くし、そのショックで認知症を発症して旦那さんに連れてきてもらったらしい。
80歳と話す口調はとても若々しくて、60、50代でも通じるくらいに表情も姿勢も凛としてた。

「もう歳だから、新しい子も飼えないし…すごく寂しくてね、頭がおかしくなっちゃったのよ。」
「趣味は社交ダンスとスキーで、もうずっとやってきたんだけど、痴呆には敵わなかったみたいね。」
そう言って朗らかに笑う顔に、自分の方が寂しくなっちゃったりして。

 

 


可哀想。
って、誰かがそう思った瞬間にその人は"可哀想な人"になっちゃうんだよね。きっかけは忘れたけど、その頃よく考えてた。
今平はなるべく、誰かに対して可哀想と思うことはしたくなくて、自分が見たその人を囲む環境と、その人から見た周りの景色はきっと違うし、
逆もまた然りで、自分の環境に悩んでる人には、また別の角度から見たときにはまだまだたくさんの発見がきっとあるよってことを伝えていきたい。


頑張ってても、ひたむきでも、可哀想の一言でなんだか寂しくなってしまう。
その人の輝きが褪せてしまう気がする。
些細なことでも、言葉が与える影響は時に大きく、人の在り方を左右するんだってことを、新田さん(仮)を見て改めて思えた気がした。

 

 

懐かしそうに、楽しそうに話す姿には、可哀想の文字は到底結び付きそうにない。
「飼ってた犬の名前は、むかーし付き合ってた彼氏の名前なの。ケンタって言うから、ケンちゃんケンちゃんって呼んでてね。」

次に聞いたときは「マネージャーの名前でね…」って言ってたりして、マネージャー兼彼氏だったのか…?なんの仕事してたんだ…?って謎が謎を呼んだりもしたけれど。

 


「おばあちゃんと孫ってことで、頑張っていきましょう。」

「私は新田(仮)っていうの、あなたは?」


毎日の自己紹介が本当に楽しかった。
この先少しでもあたたかい環境にいられることを、心から願う。