互いの中にあるもの

 

 

 

 


誰もが真実を見ることはできない。


しかし真実であることはできる。

 

 

 

 

 


ついこの間、バイオハザードでゾンビを滅多打ちにしていたら合間のムービーでとても静かで寂しげな一節が引用されていた。
後で調べようと単語単語を覚えていたのだけど、握りしめたバールがゾンビ達の頭頂部を殴打する度にその記憶も朧げになっていってしまった。
確か、フランツ・カフカの変身だっただろうか。


後で攻略サイトを見ても見つからなく、YouTubeでプレイ動画を見てもそのシーンが無く、どうしたらいいのか…
とりあえずカフカの名言集を読んで、彼の世界観になんとなく半身を浸しています。

 

 

 

 

 

冒頭に置いた文もカフカの言葉です。先に述べた一節とはまた別のもの。
真実を見つけられずとも真実であることはできる、直感だけで気に入りはしたけど、紐解こうとするとんんんんんってなる。


真実とはなんぞや。

 


彼はまた別の場所で、

真実の無い生とはあり得ない。
真実とはたぶん、生そのもののことだろう。

とも言っている。

簡単に、とても簡単にそのまま当てはめると、


誰しもが生を見ることはできない。
しかし生であることはできる。


となる。

生とはなんぞや。

 

 

 


偉人達の名言がなぜ名言と呼ばれるのか、
真意だけを過去に置き去りにして、言葉という物体だけを現世に届けられるからだろう。

本当はどんな意味だったかなんて関係ない。
結局のところその言葉を見て受け取った我々がどう思い、どう考え、何をそこから生み出していくのかを測られるのだ。

 

 


誰しもが見ることはできない。
ありのままの生とそこに潜む真。

 

 

 

 

 

いつか、誰かの真実でありたいと思ったことがある。

この人が生きていけるのであれば自分の生き方も報われるだろうと信じていた頃。

気付けばその人はどこにもいなくて、残ったのは少し強くなった自分だった。

 

 

 


自分では見つけられなかったものが、
また別の人から見たらそれは自分の中にあったりするからたまったもんじゃない。

 

自分の生を探しながら、誰かの生であろうとする、自分はそうやって貪欲に生きていくのだろう。

 

 

 

 

真実はきっとまだまだ見つからない。

一人では決して見ることのできないものだから。

 

 

 

 

おくること。

 

 

昨日歩いた同じ道でも蝉の鳴き声がなんだか少ない気がして、一足先に夏を終える者達がたくさんいるんだなと少ししんみりしました。道端に落ちている蝉達を見るたびちょっと胸が痛くなります。
虫は嫌いなんですけどね。

 

いろんなものの終わりが蝉一匹の死骸に詰め込まれてるような気がして、忘れちゃいけないものもきっとその中にありそうで、はっきり思い出す前に目を逸らします。ただ蝉一匹の死骸、それ以上でもそれ以下でもないのに。
夏が死ぬ頃、きっと自分達は蝉の声を思い出さないし。

 

 

 

 

 

 

 

最近ちょっと映画充出来てて満足度高しな日々を過ごしています。映画館じゃなくてお家映画なんですけど、


ギフテッド
ボヘミアンラプソディ
ワンダー 君は太陽


を観ちゃいました。
もれなく全部泣いてる。
泣き過ぎなのか目の色が普段よりちょっと薄くなってて、このまま青くなったらいいなって思ってます。信じるものは救われるって誰かも言うてたし。青くなれ。

 

 

映画の話に戻ります。

どれも優しいタイプの映画と言うか、語彙力無いまま言うと優しい世界が基本的に広がってて、見終わった後に殺伐さが残らない映画達でした。当たり前か。
脳がホラー、サスペンス、スプラッタに侵されるといったいこの中の誰がサイコな頭してて誰がブッ○されてしまうんだ…ってハラハラしながら見てしまうので、もう一人の僕に「ここは優しい世界だから!!!」って説得してもらって観てました。

 

 

 

 

 

ギフテッドはそれぞれの役に、視聴者側が背景を慮る余地のある人間ばかりで、それがぴたっと画面上の何かにリンクした時に涙腺が猛烈にノックされてしまう。


天才的頭脳を持って生まれた娘を天才として育てるのか普通の暮らしをさせるのか、父親と祖母のバトルがメインな訳だけど、両サイドそれぞれの愛も正義も不幸もしっかりある分難しい。そもそもが自殺した姉の娘だって言う設定が基盤にあって、それだけで物語が何層も何層も深みを増してるんだよね。


どちらかの道を自分で選べる年齢でもない、その子が幸せになるなんてどっちの道にも保証されていない、だから自分達の経験やその子への愛情に従って両者別々の道を示してぶつかるんだけど、


子育てって難しいー!!!人の人生に責任を持つってやっぱり偉大ー!!!


ってめちゃくちゃ思いました。まじで。
そろそろ文を書く頭が疲れてきたね。


多くは語られ過ぎず、ここはこうなのかな、この人はここで苦しいのかな、ここで報われたのかなって推測出来る隙が嬉しくて、考え過ぎて視界がダバダバになるシーンもあったし、みんながみんな一生懸命で、誰を憎み切ることも出来ない、愛情深い切ない映画だったように思う。
この家族を支えたり、見守ったり、一緒に闘ってくれる周りの人達もみんな優しくて、あたたかい世界だった…

才能は神様がくれたとしても、愛は人からしか貰えない。

真っ直ぐ人を愛せる強い人間になりたいなと思える映画でした。


セリフの言葉選びも退屈させないし、笑えるシーンもしっかりあって、ここがちょっと…って思うところ全然見つからない。
自分が単純なのかもしれないけど。

是非もう一回観たい。

 

 

 

残り二つも感想を書きたいのだけど、時間が無くなってしまったのでとりあえずギフテッドの感想でした。


打ちながら食べてたセ○ンイレ○ンの揚げ鶏の油がスプラッシュして服がダバダバなんだけど、したたかに仕事してきます。

 

例えば雨の日に

 

 

 

2019年も半年終わったなと思ったのも束の間、7月ももう半分が終わってしまって、このまま気付いたら秋が来て冬が来て、あけましておめでとうまでしてるんじゃないかと震えながら過ごしています。
時の流れが速いこと速いこと、速いくせに梅雨はなかなか終わらないのは四季の七不思議なんじゃないかと思う。


この時期は特にだけど、雨を好きだと言える人が羨ましい。
なにせ気圧の変化に馬鹿みたいに弱い体に生まれてしまったもんで、絶好調の頭と体で雨を感じ取ることがなかなか出来ないのだ。

冴えた頭で雨の日を楽しむことをしばらくの夢にしようかな。頭痛にも、頭にモヤのかかったような倦怠感にも襲われず、雨の音でも聴きながらのんびり過ごしてみたい。
雨を素敵だと思う感性も、マイナスに捉えがちな物事をプラスに持っていける見方も心の使い方も素直に良いことだと思うし、他の人が持ち得ない自分のお気に入りを持てることは、人生を豊かにする秘訣の一つだと思う。

 

それでも、一つの傘の下でギクシャクと肩を寄せ合って歩くのは好きだし、そういう時は自分の片方の肩だけが濡れるのも嫌じゃない。

街の音を吸い込んだ雨粒が傘に当たる音、すぐ隣からの声、自分の足音。

傘の内側にだけ出来る二人の空間が、いつか雨の記憶をも愛おしくさせるのかもしれない。

 

 

 

 

 

 


‪何もかもを許せるようになったら、それは優しさでも器の広さでもなんでもなくて、単に何にも執着も出来ず何にも興味がなくなってしまった証なのではとここ最近思う。‬
昔は全てを許したかったけど、今は自分を捨てない為に許せないことを残しておきたい。

それを許してしまった自分と一緒にいる相手に対して、それは本当の自分だよって胸を張って言えないのであれば少し寂しいことなんじゃないかと思う。

視野を広げることも、相手の考え方を尊重することも大いに大事な事だろう。
けれど自分の拘りを譲り続けて、結果自分を見失っては、生きていくことのなんたるかを放棄してしまうことと同じように感じるのだ。

自分の感情を手放してしまうくらいなら、それにくっついてくる厄介事もまとめて抱えてしまった方が、いつか振り返った時にその思い出が自分の背中を押して、励ましてくれる、そんな気がする。

 

 

 

 

 


大好きな人達には何も間違ってないよと言い続けたい。

選択の無い人生なんてどこにもなくて、
それが間違いか正しいかなんて誰にも、自分にもわからなくて、
ただただ、自分の決めたことに後悔と恥のない歩き方をするしかないのだ。

躓いても、転んでも、
水溜りに足を突っ込もうが、
歩けば進むのさ、とりあえず。


足取りが軽くなることを願って、
空を見上げる余裕が生まれることを願って、

梅雨だってきっともうすぐ明ける。

 

 

 

 

 

近くのみかんと遠くのレモン

 

最近よくミカンの木を目にするんですよね。
蜜柑。
タイトル含めて3回みかんって打っただけでゲシュタルト崩壊してるので今日は文字打っちゃダメなのかもしれないけど負けずに打ちます。

みかんの木カワイイーってパンケーキにカワイイってブッ放す女子みたいにゆるゆると眺めるんですけど、緑とオレンジのコントラストが純粋に綺麗ですよね。葉の青々しさによく映える色。
先日新宿御苑にお花見に行った時も温室に入りまして、レモンの木見てきました。なんかめちゃくちゃでかいの。
もぎ取られなきゃそのまま育つのかな?って話しながら、ラグビーボールみたいなレモン想像してました。汗臭さがいい具合に緩和できそうだし。試合終わったら相手チームと仲良く半分こしてテキーラでも呷ったらいいよ。みんなハピネス!

 

 

昔住んでた島はレモンが有名な島で、よく転がってました。レモン。青いレモンの島って調べたら出てくるんじゃなかろうか。ちょうど今は四千本桜で賑わってるかもしれない。
三千超えて四千だからね、欲張ったなって思うよね。


尾道の周りにいくつも点在してる島の中に、その島があるんです。船乗らなきゃ行けないけど、自然豊かで時間ものんびりで、あたたかくて、色々回ってきたけどダントツでお気に入りかもしれない。
スーパーは18時に閉まるし、コンビニ無いし、夜中飲み物が欲しくなった島民が自販機に集まるような、ゆるーい島なんです。
イノシシが泳いで他の島から来たりするし、坂道が急で自転車ごと吹っ飛んだりするし(体験談)、とてもいい島。

そこのホテルの料理長が今年電話くれた時に、厨房スタッフ募集してたので興味ある人は是非ご一報下さい。
めちゃくちゃ彼氏力高い料理長です。
優しくて冗談も面白くて船乗せてくれたりします。食料とか心配してくれます、むしろお父さんかな?って錯覚します。いい職場であることは間違いなし。
数ヶ月単位でも大丈夫なので、島で和食作りながらのんびりしたい人は今平へ。
ちなみに社宅は出来立てなのでばちくそに綺麗です。保証します。

あと飯が美味いし、温泉入り放題。
使い道無いからお金貯まるし、
社会とか流行りから遮断される以外はたぶん抜群に条件良いところだと思う…東京に執着してなかったら飛んで行ってた…


人手足りなくて困ってるっぽいので、誰か気になってくれたら今平も嬉しいです。

銭湯に行って来ます。

 

 

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春の雨の日

 

 

 

東京に戻ってきてもうすぐで1ヶ月になります。
TPOによっては北海道よりも寒い東京。
暖かくなったと思ったら寒くなって、暖かくなって、また寒くなって。桜も咲き悩むような気候に、人間達も戸惑っていそうな。

今平はもう身を任せてます。

自然と共に在れり、って感じ。

自分の体も自然界の一部であろうと思いを馳せながら、それでも人工物の電車に乗りながら汗かいたりしてる。
乗り物も建物もさ、寒いからって暖房に頼り過ぎるの止めようよ。厚着してんの見越して程々にあっためようよ。
背脂マシマシ逃れたいんだよ。


そんで花粉症の症状もとても酷い。毎日毎日ティッシュ配りのお姉さんにお世話になってます。
あれを受け取らない人は花粉症じゃないんだろうなと、その人の分も貰ってます。気持ちだけ。
常にポッケに3つくらい入ってる。気持ちの分。
汗かくわ鼻水出るわで水分がどんどん奪われてる。こういうところから体調崩すからね、ほんと労っていこうね。

 

 

 


季節って必ず巡ってくるし、逆らえない自然界の理で、人間達は無意識のうちに従いながら、従わされながら、また意識しながら利用しつつ、大きなサイクルの上で暮らしてんだよね。
イロイロを俯瞰的に見つめると面白い、大きな枠の中では何処にも行けないのに、その中の小さな枠の中で頑張って生きてる。
生きてるようで生かされていて、けれどやっぱりその上でしっかり生きてる。

結果生きてるじゃん。って思うけど、生きてるって意識の下に生かされてる思いを持って、でも生きていけてることにも自信を持てたらいいんだよ。たぶん。

 

 


最近はいろんなことがちっぽけに思えたり、くだらなく思えたりして、けど前みたいな無関心とはまた違って、そんな中で大事にしようと思えるものがあると涙が出そうになったりして、自分が何処でどうやって生きているのかわからなくなる。不安にもなる。
生きるってことをどの大きさのフレームに嵌めて見たら丁度良いんだろう、って考えたりして、なんとなくピントの合わない毎日を過ごしてる気がする。自分で自分を捉えきれなくて、生きていく上で大事にしたいことを手離さないように繋ぎ止めるのが精一杯。

地に足をつけていたくて、けどまだ自分はふわふわとどっかを漂ってる。

 

起きて、歩いて、人と関わって、眠りにつく。小さなサイクルが人を育てて、その人というサイクルが生まれる。
そうやって自分の作り出したサイクルが生きて、誰かの一部になると、ちゃんと人間やってんじゃん。ってちょっと誇らしくなったりもする。

どうにかして人と関わりたくて、何かを生み出したい。
人と人の間に生まれたものがまた人を動かすことは最早必然で、何を作り出せるかが、自分の人生において一番大きなテーマなんだろう。

季節も、生も、全ては巡って、逆らえないもの。
けれど逆らえないものがあるという事実が人を安心させて、また新しい道を指し示していくのだと思う。

 

 

 

何処にいても、何をしてても、自分達より遥かに大きな理の上に自分達は存在していて、何もかもが最期には無に辿り着く。自分が消えて無くなることを意識した時、人はやっと自分の命と向き合える。

春の雨が静かに降って消えていくように、生きていく為に無があるんだと知った。

 

 

そんな日。

 

 

比べられないもの。

 

 


ここ一年で色々なことへの興味関心が薄れてきているのを感じる。
色々なことがどうでもいいのだ、簡単に言ってしまうと。自分自身でそういう方針を立てたのも少しあるが、元来の性格がそこに拍車をかけて、昔よりだいぶすっからかんな頭になってしまったように思う。
ただでさえ空っぽだったのに。大問題。

 

何故そうなったかって、
誰かの気持ちを察しすぎない、とか
察してもすぐにポイする、とか
きちんと自分の余裕と向き合ってから相手の気持ちを汲み取っていく、とか
まずは外からの刺激、と言っても自分が勝手に拾いに行ってしまうからある意味内からのとも言えるのかもしれないけれど、今まではガバガバにしてた心の感受する部分を自分の意思で開け閉め出来るように、意識して暮らしたんだよね。
意識するってめちゃくちゃ大事。無意識のものを意識するようにすると、変わるね。変わっちゃう。

 

 

あとは何かを見たり聞いたりして生まれた憤りや嫉妬心を一旦キープしつつ観察して掘り下げていく作業。
付いて回る感情はだいたいが劣等感や羨望感、大体は無意識のうちに比べてしまっているのだ、その何かしらと自分とを。その感情の処理方法を考えていかなければならない。
そしてその感情が生まれてしまう対象への接し方も。


鉢合わせてしまったら、大体は無視したら楽。
そして本当は知りもしなければそれが一番楽なのだ。

どこの世界の、どんな情報でも簡単に手に入ってしまう現代で、比較対象は昔よりも遥かに多くなっている。比べていけばきりのない広い世界で自分の立ち位置を客観視してしまえばそりゃ目も眩むだろう。
自分に必要な情報は何なのか、取捨選択を間違えると途端に潰される。


どうしようも出来ないものがたくさんあるのだ。一番に生まれや育ちは変えられない。環境を変えるには大きな力がいる、お金を手に入れるにしても努力と、そして運も絡む。力を貸してくれる人間もいれば足元を掬ってくるような人間もいる。

図太い芯を持ってして、夢や希望に満ち溢れた心でそこに懸命にぶつかっていける人間ならばきっと頑張っていけるのだろう。そうじゃない人間は同じように比較して頑張ろうと思っても苦しいだけなのだ。

 

どうしようも出来ないことを受け入れられないでいると、自分の向上心がそのまま自分の精神に向かって牙を剥く。
そしてその牙を上手く飼い慣らせている人間を見ると、傷ついてしまった心が疼くのだ。まして如何にも自分よりも頑張っていなさそうな人を見ると余計に、だ。
自分は上手くいかなかった、
あんなに頑張ったのに、
環境も整ってなかった、
人にも恵まれなかった、
なんでこんな奴が、
なんでこんなに不平等なんだ、
膨らんだ嫉妬心と劣等感に潰されて、上どころか前も向けず、自分の足元を見てはまた周りと比べて、俯いたまま歩き続ける。


けれどそこまで考えることが出来ていたら十分なのでは、と思うんだよね。
ここでどうでもよくなってしまえばそれでいい気がする。

自分の世界は自分にしか作れないことを改めて認識してしまえば後は簡単で、広げすぎた世界を少し小さくすればいい。
何段も飛ばして階段を駆け上がれる人なんて一握りもいないのだ。自分の足が今どこに着いているのかを知っているなら、遥か上では無く次の段を見据えればいい。
不必要に上なんて見ずに2段、3段先を見て足を運んでいければそれで十分なのだ。他の人間なんてどうでもいい。

たくさんのお金、やり甲斐のある仕事、綺麗な容姿、素敵な友人に素敵な恋人、素敵な家族。別に無くたっていいんだよ。
今の自分に少しだけ満足して、少しだけ変化を望むくらいがちょうどいい。
みんなどこかで平等に不平等で、遣る瀬の無い気持ちと闘っている。もちろん闘ってない人もいるだろうけど、それこそどうでもいいのだ。


自分に必要なものはいったい何なのか、
周りと比べることを辞めてからもう一度考えた時に、そこにあるのは驚くくらいにシンプルなものだと思う。
何の為に、誰の為に、雑念に塗れた行動は同じく雑念に塗れた世界に溶けていく。
今いる世界が息苦しいと思っているのであれば、一度全て捨ててまっさらな自分と向き合ってみるべきだろう。

 

 

輝いてなきゃいけないなんて誰が決めたのか。自分で思ってる以上に、自分で勝手に決めてしまってるルールというものはたくさんある。


あの人より綺麗じゃなくても、
あの子よりお洒落じゃなくても、
映える料理を食べてなくても、
キラキラした日常を過ごしていなくても、
それでもあなたはきっと素敵なのだから。

自然体のまま笑っていられたら、それこそその輝きは唯一無二のものだと今平は思うよ。

 


世界を恨んでしまったら、作り変えてしまおう。

その力は誰の中にも必ずあるから。

 

 

10年の道

 

 

 

少し前から10年前の自分の写真、をどうのこうの、載せてなんやかんやするのが流行ってるそうで。TLで見かける写真がね、タイムスリップしまくりなんですけども。
ないですよそんなん、
10年前、14,5歳ですから。
ぴちぴちの中学生。
携帯も持ってなければ、遊ぶのも口約束で、部活と勉強と遊ぶのとで、毎日があっという間に過ぎていってましたね。

 

見かけると大体わざわざ引っ張り出してきてどうもご苦労様ですって思いながら静かにミュートするんですけども(FF外の方達)、たまに劇的な変化を遂げてる方も流れてきたりしてね、そっちは素直に感心したりして。
というより本来そっちをメインに作られたタグなのではなかろうかと思うんだけど、ハイエナみたいに自己を顕示する場を狙ってるからね、みんなね。私は餌場が違うからこうやって物言っちゃってるんですけども。
ものすごく痩せた方とか、筋肉隆々になった方だとか、垢抜ける前の野暮ったい自分を恐る恐る見せてみたりだとか、時間ってすごいなって、様々と見せつけられますよね。


でもさあ、その中でも三十路過ぎて10年前の写真をポンと出せる人は、やばいよ。たぶん。
今平の中ではやばい。
最近毒吐くの辞めてたんですけど、ここまで来るともう毒とかじゃなく素直にやばい。
ていうかその辺の歳になるとなんか、さも当然かのように出すじゃん?
どっから持ってきたんだよそれ。
iCloudか?2011年リリースだぞ確か。
ガラケーのデータを移したものを大事に大事に取っておいてさあ今だと出して来たんだと思うと、泣ける。何の涙かはわからない。泣ける。

 

写真出す→10年前もカッコ(カワ)いいですねor今の方が好きですor今も昔もカッコ(カワ)いいですね

パターンなんだよもう、プログラミングされてるかのように、見るリプライほぼこれ。言ってるやつらに心は無いのかと。尚更これでなにが満たされるのかと。
ツイドルって、他のツイドルのリプライ欄とか見ないの?あと自分にかわいいかっこいいって言ってくれてるおじさんとか陰キャのリプライ欄見てみ?botか!てなるよ。
頭の作り気になるよね。両者共に。

湯水のように湧き出るその媚びたセリフと、なんかもう逆に虐められてんの?ってくらい滑稽に見えるそれに手を振るツイドル。

そのお立ち台、早く降りないと連れてかれちゃうよ。

二度と戻ってこれないよ。

 

 

 

 

 

 


って、だいぶゲロっちまったんですけど、

 

 

10年。
自分にとっては、ちょうど激動の時代が始まった頃なんじゃないかなと、振り返ってみるとね。
おそらく中学3年生、受験シーズン真っ只中。世はまさに児童相談所時代!!!!
そうです、家庭の事情で受験校まで担任の車で行くっていうVIPな時期でした。
ちょうど洗面所の窓から通学路が見えたりして、寝間着姿で制服の同級生を見送ってたりしてました。

でも馬鹿だから第一志望落ちたねごめんね先生、滑り止めでキュッと止まれたから許したってや。

 

 


そして今でも思い出せる、所内に同い年の男の子がいて、その子とめちゃんこ仲良くなったこと。一緒に遊んで、飯食って、風呂入って、もう共同生活してたらそりゃ仲良くなりますわな。

自分より早く出所(言い方な)が決まっちゃって、前日の夜滝のように涙を流したこと。
消灯の時間になっても布団でベソベソしてたら、一緒に寝て慰めてくれたこと。
それでも結局次の日の朝ごはんの時間にもベソベソ泣きじゃくってた自分。

 

今でも会いたい気持ちはしっかりあるけど、名前もうろ覚えで、きっと一生会えないんだろうなって、思い出す度に寂しくなります。


どうか強く生きていますように。
他の人よりも向かい風の強かった時を一緒に過ごせて、どれだけ心強かったか。
幸多き人生を歩めますように。

どうか言霊が届きますように。

 

 


そしてそこから10年、なんとも落ち着かない人生をひたすらにもうボロ雑巾のように歩んでるわけですけど、
思えば流されて流されて、流されて流されての人生だったんだなと。
流された先で選択して、流されて選択して。
激流の中に飛び込むこともあったけれど、いつも誰かの意思に掴まってたのかもしれないと思った今日この頃です。

誰かの気持ちを汲んで、汲んで、汲んでる間に、自分のしたいことがわからなくなって、
そもそも自分のしたいことも、そんなに無くて、
自分の人生に価値を見出す瞬間が、全くないまま大人になって。

 


つい昨日、友達に叱られたんです。

おまえが勝手にてめぇの人生決められるとおもうなよ

って。(原文まま)
逆にね。なんかね。逆だよね。
こんな人生って言い方をしたから、自分で人生決めつけられるほど人生は小さいもんじゃねえぞって意味なんでしょうな。
その後で

自分の人生自分で作れ

って。この順番じゃなきゃ確かにダメだね。
いろんなことを見抜かれてるようで、半分は考え無しの癖に、ずるいなあって思いました。

 

 

 

自分の思い描いた人生をもう歩めないと悟った時、人はどうするのが一番正しいんでしょう。
ただひたすらに休息でしょうか、
次の人生に向けて、頭をリセットするんでしょうか。

この記事は、一つの区切りとして書いています。

 

 

 

思うに、大事なのは道では無く、
その道を歩く為の力なのではないかと。

最近は不調の無い日が無くて、
ああ体が壊れていってるんだな、と思う毎日です。けど病院にすら行けない。


人を動かすものは気持ちです。
心が死んだら、人はきっと、
もうどこにも行けないのだろうな。

 

 

でも、そうだ、10年前の自分へ

 

海が見たくなったから横浜に来た。

 

って、とりあえずでも言える場所に今いるよ。この後はどこ行くかわかんないけど。びっくりだろう。

日本は広かったぞ、世界はもっと広いみたいだぞ。頑張れ。頑張って今と違う世界線で生きていけ。

しあわせを掴め。